「それじゃぁ、貴子ちゃんお疲れさまでした〜ってことで、乾杯いくわよ〜〜〜!いいわね〜〜〜!かんぱぁぁい!」
満席の店内にイチゴねえさんの声が響き、雅也は店中にいた人間とグラスを合わせた。
金曜日。今日で雅也のバイトは終わりだった。
「いやー残念だなぁ、もうこの姿が見られないなんて」
客の一人が残念そうに言う。
「その分あたしがサービスしちゃうわよ〜〜〜」
「・・え、遠慮します」
イチゴねえさんににじり寄られて客がひきつる。まわりが笑っている中、雅也は一人浮かない顔をしていた。
「どうしたの?暗い顔して」
隣りにいたレモンねえさんが心配そうに聞いてくる。
「いえ、残念なんですよ・・こんな楽しい所に来れなくなるなんて」
笑顔を作ってあわてて取り繕う。
「何言ってんのよ、いつだって来ていいのよ?まあちゃんならいつでも大歓迎」
「じゃあまた・・遊びに来ます」
絶対よ!と念を押した所で、レモンねえさんは他の客に呼ばれて雅也から離れていった。雅也の前では客とイチゴねえさんがまだじゃれあっている。
ため息をそっとつく。
自分が暗い理由はよく分かっている。
もちろん、今までのようにこの店に来られないのが寂しいのもあったが、雅也の浮かない顔の原因は別だった。
今日も城が自分を待っているはず・・。
雅也はバイトが今日で終わりであることを城に告げていなかった。
『・・早く城とのことをなんとかしなきゃいけない・・』
先週からずっとそう思っていたのに、結局タイムリミットの今日までずるずると引っ張ってしまった。 何とかする・・・それは『貴子』として城とのつき合いを断り、雅也は普通のクラスメートのまま何も無かったことにして過ごすこと。 何もなかったことに・・今ならできるはず・・でも・・。 『言いたく・・・ないな・・・』 小さくため息をついて目を伏せる雅也をじっと見ている目があったことに、雅也は気づかなかった。
夜も更けた頃。
いっぱいだった店の客の姿も少しずつ減り始め、雅也が相手をしていたボックスの客も帰っていった。
雅也の最後のバイト時間が終わった。
更衣室に入り、Gパンとシャツに着替える。城と会うのでメイクとかつらはそのままでロッカーを閉めた。
ふと目に入った化粧台の鏡の中に映っているのは・・『貴子』だ。
この姿で城に会うのも最後なんだから・・・しっかりしなきゃ。
顔を引き締めたその時、更衣室のドアが開き、イチゴねえさんが入ってきた。
「まあちゃん、もう帰るのね。ちょっといい?」
「あ、は、はい」
突然で驚く雅也をイチゴねえさんが化粧台の前に座らせる。そのまま黙って見上げる雅也を見てにっこり微笑むと、イチゴねえさんは口を開いた。
「まあちゃん、今いくつ?」
「18ですけど・・」
「そう・・初めてまあちゃんがこの店に顔を出したのは、確か中学生になったばかりの時だったわよね」
はっきり思い出せないが、その頃働き始めた兄に用事があって来たのだろう。
「でね、その時あたし思ったの、なんて愛想の無い子だろうって」
「そう・・ですね」
確かにその頃は人と話すのが大の苦手で、兄以外の人間と話す事は滅多になかった。今考えても、とてもまわりにいい印象を与えていたとは思えない。
「もちろん、最近はまあちゃんもいろんな人と喋っているし、人当たりもとっても良くなったしすごく進歩したと思う。あたしもそれはうれしいわ。でもね・・」
・・イチゴねえさんは何を言いたいんだろう・・
怪訝な表情の雅也をまっすぐに見てイチゴねえさんが口を開いた。
「人を信じるのも大切なことよ」
「・・・?」
思いがけない言葉を聞いて、今度は雅也がイチゴねえさんをじっと見つめる。
「あたしも含めて、まあちゃんを好きな人はいっぱいいるわ。その人たちを信じてもっと自分を見せたら、まあちゃんはもう少し楽になるんじゃないかしら」
「・・イチゴねえさん・・?」
雅也の足元に座りこみ、イチゴねえさんは話を続けた。
「あたしね、ずっと思ってたのよ。で、いつかあなたに言いたいなと思ってたの。年寄りの戯言と思ってくれていいのよ。・・・とにかくまあちゃんっていつもピンと張りつめていて、休憩場所を作らないといつか壊れちゃうんじゃないかって、今でもすごく心配なの」
「そんなこと・・」
口ごもってしまう。
みんなを信じてないわけじゃない・・雅也は思ったが、それをはっきり証明することができない。
雅也にとってこの店は居心地のいい場所だ。イチゴねえさんも他の人も親切でやさしいし、雅也はみんなが好きだった。でも誰かに頼ったり、相談したりするのが苦手なのは本当だったから、信じられてないと取られてもしょうがないのかもしれない。
『・・・でも、本当にそうだろうか・・』
ふと思う。
本当に苦手というだけで誰にも頼らなかっただけか?
自分は本当にみんなを信じているのだろうか?
だいたい、今まで自分は兄以外で心から信じた人がいただろうか。 『・・・あ・・でも・・・』 自分が覚えていないだけで・・遠い昔には・・・いた・・?
思いだそうとしても思い出の深いところに靄がかかったようで・・
『シンジテタノニ・・・』
「あ・・!」
その時突然頭に浮かんだ言葉に、雅也の胸が一瞬掴まれたように激しく痛んだ。
「どうしたのまあちゃん?」
急にうつむいた雅也をイチゴねえさんが覗き込む。
「あ・・ちょっと・・」
「大変、真っ青よ」
動悸が激しくなって、頭痛がする。何か考えようとすると一層激しくなるようだ。
「横になったほうがいいわよ!」
イチゴねえさんに有無を言わさずソファに寝させられる。
「静也くん呼んで来たほうがいい?」
「・・大丈夫です。軽い貧血みたいだから横になっていれば治りますから・・」
横になってすぐに頭痛は嘘のように消えた。頭が霞がかかったように重い。そして胸に何かがつかえたような少し苦しいような感じがして・・。
「あたしが変な話ししたからかしら・・?」
おろおろするイチゴねえさんを、更衣室の外から呼ぶ声がした。客が呼んでいるらしい。
「大丈夫ですから。呼んでますよ?」
何かあったらすぐ呼べと言い残して、イチゴねえさんはしぶしぶ更衣室を出ていった。
静かになった部屋に一人残された雅也は、横になったまま大きなため息をつくと、頭の下にあったクッションに顔を埋めた。
記憶をなくす以前のことを思い出そうとして、こんなことになったのは初めてだった。頭痛がすることはあったが、こんなに胸が苦しいのはどうしてだろうか・・・
「あれ・・」
目の前のクッションに小さな染みができる。
ポタポタと落ちているそれが自分の涙だと気づいたころには、かなり大きな染みになっていた。
「なんだろう・・」
自分は何か悲しいんだろうか。
泣きたかったことがあったんだろうか。 それは記憶の彼方のものなのか、今の自分のものなのか・・。
「・・こんなんで城に会ったら、俺、何言い出すかわかんないな・・・」
ぼんやりと、ただ静かに涙だけが流れていたが、それが止まっても雅也の胸のちいさなつかえはなくならなかった。
「・・あんた、どうしたんだ」
城の待つ公園は繁華街のすぐ脇にある、市民の憩いの場所になっているかなり大きな公園だった。広場では野外コンサートなども行われ、クリスマスシーズンになると木々に飾り付けられたイルミネーションが美しく輝くことでも知られている。初夏のこの時期、昼間なら噴水が涼感を与えているだろう。
約束の場所まで歩いていった雅也は、街灯の下に城の姿を見つけるとわずかに歩みを遅くした。
しかし、ほぼ同時に雅也を見つけた城もゆっくりと雅也に向かって歩いてくる。
向かい合って立った時、雅也の顔を見た城が口にしたのが冒頭の台詞だった。
「別に、なんでもない」
「何でもないって顔か。自分の顔を鏡で見てみろ。体調が悪いんなら早く帰ろう」
「大丈夫だから。それより話があるんだ・・」
言いかけたとき、雅也の頭にヘルメットがかぶせられた。 「ちょ・・!」
そのままグイッと上を向かされ、城がメットのひもの金具を留める。喋ろうにも口を開くこともできない。どうしたらよいかわからない雅也は、結局黙ってされるがままになっていた。
金具を留め終わってやっと雅也は首が自由になった。気まずさに下を向いたまま離れようとすると、急に両肩を掴まれた。
「・・・!」
そのまま強い力で引かれ、気づいた時には城の胸に抱き込まれていた。
「あんた今、体調悪いんでないなら・・まるでこの世の悪いことを全部見てきたみたいな顔してるぜ・・。そんなあんたから話なんて聞きたくない」
絶対ろくな話じゃないだろうからな、とつぶやき、城が笑った気配を雅也は感じた。
ヘルメットをしているせいか周囲の喧噪は遠く、城の声だけが広い胸を通して直接響いてくる。
また頭の中がぼうっとしてきたようで、昨夜あんなに考えていた城への最後の言葉さえはっきりした形にならない。 「明日の夜、ライブをやるんだ」
静かに城が話しだした。
頭を城の胸につけたまま雅也は動かずに聞いている。
「もし俺とつきあう気があるならきてほしい。俺が一番自分をさらけだしてる場所だから、あんたに見てもらいたい。でももし、まったくその気がないならこのチケットは捨ててもらってかまわない」
顔を上げると、城が一枚のチケットを雅也に差し出した。 「・・その時はもうつきまとわないから」
手の中に渡されたチケットを握りしめる。
言葉が出てこない。
ここで『行く気はないからこれはいらない』と言ってチケットを返せば、雅也が話したかった用件は済む。
簡単なことだ。
でも・・・雅也の口は凍りついたように動かなかった。
胸がつかえたようで・・苦しい。
さっき涙を流した時に感じたよりもっと苦しい。
立ちつくしている雅也の背中を、城がバイクの方へ軽く押した。
「・・今日は帰ろう」 何も言わず、雅也は城の後ろに乗った。 低いエンジン音が響き、バイクが動き出す。
街の光が河のように何重にも重なって流れていく。
城の背で雅也はそれをぼんやりと眺めていた。
to
be continued...
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