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       「あれ雅也、まだ起きていたの」 
       雅也の兄、静也が夜遅くに店から戻った時、雅也はリビングのソファーで深夜番組を見ていた。 
      「うん・・おかえり」 
       膝を抱えてぼーっとテレビを眺めている弟を見て、静也はクスッと笑った。 
      「もう2時を過ぎているよ。朝起きられなくても知らないよ?」 
      「大丈夫だって。眠れないんだ」 
       リビングの奥の自分の部屋に入り部屋着に着替えて出てきた静也は、腰まである長い髪を一つにまとめながら今度はキッチンに入っていった。 
      「眠れないんだったらお茶につきあって」 
       言いながらかちゃかちゃと音をさせている。程なくいい香りの熱い紅茶を2つ、トレーに乗せて戻ってきた。 
      「・・あれ、ブランデー入れたの?」 
       カップに口を付けて雅也が気づく。 
       雅也はアルコールに弱く、店でも未成年ということもあり、ほとんど飲まなかった。 
      「香り付け程度にね。これくらいなら雅也も大丈夫でしょう?」 
       頷くと、雅也は紅茶を一口飲んだ。心地よい香りと暖かさで気分が落ち着いてくる。 
       静也は、雅也の座っている二人掛けのソファーの足元にクッションを置いて座り、同じように紅茶を飲んでいた。 
       部屋には深夜番組の音だけが小さく流れている。 
       静也は何も言わない。 
       もの静かなこの兄がこうして側にいるだけで、雅也はいつも自分が落ち着きを取り戻せるのを感じていた。     
       城の思いがけない告白から一週間が経っていた。  あの日の翌日からも城は同じ所で待っていた。バイクで送ってもらうだけの時もあれば、ついでに本屋やレンタルビデオ店に寄ったりすることもあった。そしてその度に雅也は城のいろいろな面を垣間見ることになった。  今日もビデオ店で、雅也が何気なく手に取った日本のホラー映画ビデオのパッケージを隣から覗き込ん城が、思いきり顔をしかめて視線をそらせた。どうしたんだと聞くと、『・・ホラー映画は嫌いだ』と拗ねたような口振りになるのがおかしくて、雅也はつい笑ってしまった。  クスクスと笑う雅也を見て口をとがらせていた城だったが、すぐに『そんなに笑うんじゃねーよ』と苦笑して雅也の頬を拳でスッと撫でた。思わず見上げて間近に見た城の自分を見る表情に、一瞬胸がどきりと鳴った。  赤くなった顔を見られないように、雅也はビデオを元の場所に戻して歩き出した。  その後、いつものように送ってもらった雅也は、そのままベッドにもぐりこんだ。 『・・・もう・・寝てしまおう・・』  さっさと寝てしまおうと思っても頭が冴えていてなかなか眠りが訪れない。   目を閉じるとさっき見た城の顔が浮かんできて・・・頬に触れた城の手の感触まで鮮明によみがえる。首の後ろが粟立つよう感覚。でもそれはイヤなものじゃなく、むしろもっと触れて欲しいと思うような・・・・ 『・・な・・に考えてんだ、俺・・!』  布団の中で一瞬で真っ赤になった頬を押さえてベッドの上に座り込む。  胸が・・どきどきしている・・・。  このまま眠るなんてできやしない。  雅也はベッドから降りるとバスルームで冷たいシャワーを浴びた。 『・・・俺・・なんかおかしいよ・・・』  頬の熱さを感じなくなる頃には身体も冷えきってしまっていた。  雅也はため息を一つつくと熱いシャワーを浴び直し、バスローブのまま誰もいないリビングでテレビをつけた。静かだった部屋にバラエティー番組の音が響く。 『兄さん、何時に帰るかな・・・』  ソファーの上で膝を抱える。  賑やかなはずのテレビの音も雅也の耳には届いていなかった。  
      
       カチャン・・とカップがソーサーに置かれる小さな音がした。  その音に雅也が顔を上げ、ソファー脇に座った静也と目が合う。にっこりと微笑むと、静也が口を開いた。 
      「店の方は大変じゃない?」 
      「うん、大分慣れたから。結構楽しいよ」 
       雅也の言葉に静也は微笑みを深くした。 
       雅也より7才上の静也は、高校卒業後から静(しずか)という源氏名で『夜来香』で働いている。 
       細面で和服の似合いそうな楚々とした美人だが、おとなしい兄が客商売なんてできるのだろうかと、雅也は実際見るまでは半信半疑だった。 
       しかし『水商売は明るく騒げばいいや』と思っていた雅也は、静の姿を見て考えを改めさせられた。 
      『静が隣にいるだけで心が穏やかになる』 
       常連さんがよく言う台詞。 
       自分がいつも感じていた静也の空気を、客も敏感に感じ取ってくれている。 
       この空気をもっと身近に感じている人がもしいたら・・。 
      「兄さんって・・恋人いるの?」 
       突然の質問に静也が目を丸くする。 
      「・・・いきなりどうしたの」 
       どうしたと聞かれても雅也自身も解らなかった。 
      「何となく聞いてみたいだけ」 
       じっと静也を見つめる。  
      「残念ながら、いないよ」 
       雅也の視線をやわらかく受けとめながら静也が返す。 
      「今までも?」 
      「・・恋人は・・いないね。雅也、紅茶はもういい?」 
      「あ・・もういいや」 
       静也はまたキッチンに入っていった。 
       残された雅也はなんとなくはぐらかされた気がした。 
      『・・聞いちゃいけなかったかな・・』 
       静也が怒ったのを見たことはないが、もしかして自分の言葉で気分を害したのではないかと少し不安になった。  同じような兄を以前も見たことがある。 
       雅也が両親のことをしつこく聞いたときだった。 
       雅也と静也には両親がいない。雅也は自分が小学生の時に事故で二人とも死んだと聞いている。でもその時一緒にいたはずの雅也には覚えがなかった。それどころか事故以前の両親についての記憶もあいまいで、顔さえもはっきり覚えていない。事故のショックによる記憶喪失というものらしい。 
       雅也の記憶は10歳頃からおぼろげに始まっている。   雅也にとって記憶の中でも、そして今も家族は静也ただ一人だった。 
      『兄さん、遅いな・・』  不安が強くなる。しかしキッチンから戻ってきた静也に、いつもと変わったところはなかった。  自分のカップをテーブルに置いて、さっきと同じ場所に座った。 
      「・・・でも雅也がそんなことを聞いてくるなんて初めてだね。好きな人でもできたの?」 
       クスクスと笑いながら聞いてくる。 
       その様子にほっとしたせいだろうか。 
      「クラスメートに告白されたんだ」 
       気づいたときにはもう口が滑ってしまっていた。 
       静也の表情が驚きに変わる。 
      「クラスメートって・・雅也は男子クラスだったよね」 
      「ん・・そうだけど・・」 
       ごまかしようがなかった。 
      「今、その子とつきあってるの?」 
      「つきあってはいないけど・・」 
       歯切れの悪い雅也を、静也はじっと見つめている。 
       長い間親代わりをしてきた静也に、雅也はこれ以上隠し事をすることはできなかった。 
      「バイト中にそいつと偶然会ったんだ・・」 
       結局、ぽつりぽつりと、送ってもらったことや正体はばれていないこと、だけど告白されてその後も送ってもらっている事を静也に話した。 
       静也はじっと聞いている。 
       その表情から怒った様子は見られないが、いつもの穏やかな笑みもない。 
       話し終えて口をつぐんでいた雅也が、その空気に居たたまれなくなってきたころ、静也が口を開いた。 
      「・・雅也はその子のことをどう思っているの」 
       聞かれるだろうとは予想していたことだった。 
      「・・・よくわからない」 
      「わからない?」 
      「俺、今まで誰かを好きになった覚えがないから・・よくわからないんだ」 
       雅也が大きく息をつく。 
      「あいつにつきあってくれと言われたとき戸惑ったし、バイトのことばれたらまずいと思って断ろうとした。でも・・できなくて・・」 「雅也はお店でよくつきあってくれとか言われてるよね?それってどう思ってるの」  静也のいきなりの問いの意味がよくわからず、雅也はじっと兄を見つめた。しかし静也は相変わらず読めない表情で雅也の視線を受け止めている。  雅也は小さく息を吐いた。 「・・・それは酔っぱらいの冗談だってわかってるから・・・」 「もし本気だったら?」  雅也は思わず眉根を寄せた。 「・・・絶対、やだ」  その表情に、静也がクスッと笑った。それに口をとがらせた弟の頭を軽く撫でる。 「じゃあ、そのクラスメートに言われた時はどうだったの?」 「どうって・・・」  雅也がうつむく。じっと考え込んでいる弟を、静也は何も言わずに見つめていた。 「あいつの時は・・・イヤじゃなかったと思う」  うつむいたまま小さな声で雅也は答えた。 「ただ・・・あいつは俺を見てるわけじゃなくて『貴子』に対してつきあってくれって言ってるんだ。それが・・・何だかイヤなんだ。自分が無視されてる・・ていうか、あいつの頭の中に自分が全くいないみたいで・・」 「・・・自分がいない・・・?」 「うん・・俺の中に他の人間を見てるわけだから・・・」  自分の考えに沈み込んでいた雅也は、自分の髪に触れていた静也の手が止まっていたことに気づかなかった。 「・・・自分が存在しない恋愛なんて無駄だよ・・・治らない傷が残るだけだ」  突然、雅也のつぶやきを断ち切るように、静也の固い声が届いた。 
       思わず顔を上げると間近に静也の顔があった。しかしその瞳は何も映していないように見える。 「兄さん・・どうしたの?」 
      「・・!」 
       心配そうな雅也の声に気づき、静也の目に光が戻った。 
       そして小さなため息を一つつくと、すっかり冷めてしまった紅茶に口を付ける。  その兄をみつめる雅也の不安げな顔に視線を戻すと、静也は何もなかったかのようにやわらかく、しかし苦笑混じりに口を開いた。 「ごめんね、何でもない。・・・でもね雅也、その子が『貴子』だけを見てるとか自分が無視されてるみたいでイヤだとか言ったよね」 「・・・うん」 「それって、雅也がその子に『貴子』でない自分に好意を持って欲しいって思ってるってことじゃないのかい?」 「・・・え・・?」  思いも掛けないことを言われたように、雅也は静也の言葉に目を見開いて固まっている。そしてその顔色が徐々に桜色に染まっていくのを静也はじっと見ていた。  この弟は昔から自分の感情にはかなり鈍いところがあった。  今回も、どうやら自分自身の気持ちにやっと気が付いたらしい。  ただ・・それが結局はそれが残酷なことになるのかもしれない・・・自分が今から雅也に言うことが現実になったなら・・。  小さく息を付くと、静也はゆっくりと口を開いた。 「・・雅也、僕は君の相手については何も言わないよ。でも・・・もし貴子のまま自分を隠してつきあうことになるなら賛成できない。それは相手を騙すことになるし、雅也も辛くなると思う」  静也の言葉に雅也は何か言いたげにしたが、結局ただうつむいていた。  しばらくの間、部屋には時計の音だけが聞こえていた。  やがて、雅也がソファーから力無く立ち上がった。 「・・・もう寝る」 「・・そうだね。おやすみ」  自分の部屋のドアの前まで行き、そこで振り返った雅也は、小さく兄を呼んだ。 「兄さん・・」 「何?」 「・・・ありがと」  つぶやくと、部屋の中に入っていった。
 
   部屋に戻ると、雅也はベッドに潜り込んで頭の上まで布団をかぶった。寝返りをうって身体を丸める。  考えるのは、今静也に言われたことだ。 『城に・・・あいつに自分自身に好意を持って欲しいってことは・・俺があいつのことを好きだってことで・・・』  考えるとまた顔が熱くなってくる。  そんなこと今まで考えたこともなかった。でも強く否定するには・・・自分のこの反応はいったい何だろう。  思わず目を閉じると、城のことを思い出してしまう。声や表情、言葉の一つ一つまでが鮮やかによみがえって・・・かえって心拍数が上がってしまった。  丸くなったまま寝返りをうつ。  どうしたら・・いいんだろう・・。  いや、それよりも・・ 『・・・もし貴子が俺ってことがわかったら・・?』  一瞬胸が強く痛んだ。  ・・・あいつは離れていくだろう・・
  
      『どうしたらいい・・なんて・・』  わかっている。  知られて冷たい目で見られるのは耐えられない。  わかっているけど・・・ 
      「・・・どうして城のやつ貴子に好きだなんて言ったんだよ・・」  きつく閉じた目の奥が熱くなってくる。 「・・・どうして俺、城のこと好きになっちゃったんだよ・・・」 
        もう窓の外は白み始めてきていた・・。
 
 
  
      
      
      
      「わぁ〜、雅也くん、久しぶり〜!」 
       次の土曜日、桂子ママとともに雅也は病院に来ていた。 
      「絵里さん、具合はどうですか?」 
      「うん、もう元気よ〜。早くシャバに戻りたい〜〜!」 
      「シャバって・・」 
      「もう、ろくに物は食べれないし煙草も吸えないし9時には消灯だし、地獄よここは!」 
      「そりゃそうでしょ病院なんだから。節制しないと一生治らないわよ、あなたの肝臓」 
       腕組みをして桂子ママが言う。ちなみに絵里の病気はアルコール性肝炎である。 
      「そりゃそうだけどぉ・・」 
       誰の差し入れなのか、ピンクの大きなハート型のクッションを抱きかかえて上目遣いにママを見る絵里は、どう見ても22才の男には見えない。 
       絵里の体型は完全に女性であり、くりっとした目の幼い顔立ちをしていた。さらに着ているのはピンクのパジャマで、栗色の腰までの髪をポニーテールにしてパジャマとお揃いのリボンで結んでいる。 
       病院の院長がママの知り合いだったこともあり、特別な配慮をしてくれたのだろう、絵里は個室を与えられていた。 
       どのみちこの姿の絵里を男性の大部屋に入れるわけにはいかないし、女性部屋も問題になる。ネームプレートは本名の『伊達健三』なのである。 
      「あたしのいない間、雅也君がお店を手伝ってくれてたんでしょ?ごめんねぇ、迷惑かけて」 
      「いいんですよ、俺も楽しんでますから」 
      「ホント、雅也君は絵里に負けないくらいかわいいのよ」 
      「あ、ちょっと嫉妬しちゃうな〜」 
       絵里が片目で雅也を睨む。そして3人とも同時に笑いだした。 
      「で、いつ退院できるの?」 
       笑いがおさまったころ、桂子ママが訊ねた。 
      「ん〜、先生は、たぶん来週中には大丈夫だろうって言ってたけど」 
      「お店はどうする?」 
      「あ、退院したら即、行きますよ〜。もう騒ぎたくてしょうがないもん」 
      「お酒はしばらくだめよ」 
      「はぁ〜〜〜い」 
       笑いながら話す二人を、雅也は黙って見ていた。 
       しばらく雑談をしてから病室を後にした二人は、病院の前に止まっていたタクシーに乗り込んだ。 
      「雅也君にも迷惑かけたわね」 
       走り出してすぐ、桂子ママが口を開く。 
      「絵里も大丈夫みたいだし、とりあえず雅也君に手伝ってもらうのは来週いっぱいってことにしましょう」 
      「・・・はい」 
       雅也も桂子ママも前を向いたまま話していた。 
      「受験生なのに、こんなことを頼んで悪かったわね」 
      「いえ、俺が無理に手伝いたいって言ったんですから」 
       窓の外を流れる景色は見慣れたものになってきていた。 
      「雅也君」 
       桂子ママの声に、そちらを振り向く。 
      「店にはいつでも来ていいんだからね。気分転換しにいらっしゃい」 
      「・・・はい」 
       雅也は微笑むと、ちょうどマンションの前で止まったタクシーから降りた。そのままタクシーは桂子ママを乗せて走り去った。 
       部屋に帰るともう静也は店に出かけた後だった。雅也は土曜日は休みになっていた。 
       自分の部屋に入り、ふとベッドに目をやる。 
       枕元には一枚のCDが置いてあった。 
       昨夜、城に送ってもらった時に寄ったCDショップで、どんな音楽を聴くのかという話になり、雅也があまり音楽を聴かないと知ると、城は次の夜に一枚のCDを雅也に渡したのだった。 
       城のお気に入りの一枚だという。 
      「来週がタイムリミット・・・か」 
       もう、貴子はいなくなる。  足は・・・とっくに治っている。 「・・いいかげんにキリつけなきゃな・・・」
 
  
       その夜、雅也はそのCDを何度も聞いた。 
        
        to be continued...
 
  
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