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        『十条くん、板橋くんは無事に会場に入りましたか?』 
      「はい。たった今」 
       Tホテルのロビー。 
       午後6時のパーティー開始直前。2階にある大宴会場は、華やかに着飾った女性達で溢れかえっていた。 
       その会場の受付から少し離れた所、同じフロアの所々に置かれたソファーには、参加者達の恋人や家族らしき男達が暇そうに座っている。その中にまぎれて、十条は会場の様子を窺っていた。 
      「しっかし・・板橋って美人だったんですねぇ」 
      『確かに。あそこまで化けるとはさすがに想像もつかなかったですね』 
       携帯の向こうの桂の声にも、苦笑の色が見える。 
       つい先程、綾と猛、そして後から合流した2人のモデルが会場に到着した。 
       前もって携帯で『今着いたから』と聞いていた十条であったが、いざ、受付前のフロアに入ってきたひときわ華やかな集団が現れた時も、その中の1人が猛だとは到底信じられなかった。 
       呆然としていた十条は、猛が目の前を通り抜ける時に、一瞬こちらを見てちらっと舌を出したのを見て、はっと我に返ったのだった。 
      『私と坂本警部は狩野家の人間に顔が知られていますから、念のためホテルの外で待機しています。会場に異変があるようなら、すぐに知らせてください』 
      「はい。でも結構な数の警備ですよ」 
       会場のある2階フロアーには、所々に背広姿の男達が立っていた。狩野家が依頼した警備会社の人間だろう、受付周辺や会場内に立つ隙のない様子は、普通のパーティーにしては異様な雰囲気を漂わせている。 
      『せっかくたくさんいるんですから、ネックレスの警備は彼らに任せて、我々は怪盗Tの尻尾を捕まえることに専念しましょう』 
       桂の言葉に頷きながらも、十条は会場内の猛のことが気掛かりだった。 
        その猛はというと。 
      『い・・・痛い・・』 
       パーティーは立食形式で、椅子は広間の端に並べられている。その中の1つに座って、猛は足の痛みに耐えていた。 
      「大丈夫?あたし、カットバン持ってるからあげようか?」 
       一緒に会場に来たモデルの女の子が心配そうに猛を見ている。猛の両足は、慣れないヒールの靴のおかげで見事な靴擦れができていた。 
      「すみません、2枚もらえますか?」 
      「うん。クロークの荷物の中から持ってくるから、ちょっと待ってて」 
       そう言って、ミキという名のその子は走っていってしまった。 
      『もう・・俺、何やってんだろ』 
       パーティーが始まる前の喧騒の中、1人になって猛は小さくため息をついた。 
       血が滲んでいるこの状態では、怪盗Tを捕まえるどころか歩くのさえおぼつかない。  ミキからカットバンをもらったら、とにかく美和子の近くに行かないといけない。標的のネックレスの側にいないことには話にならないんだから・・・ 
       うつむいて考え込んでいた、その時。 
      「お客様、どうなさいましたか?」 
       猛の視界が、急に暗くなった。 
       驚いて顔を上げると、目の前に黒いタキシード姿の男性が立っていた。見上げる猛からはライトを背にして立っているため、はっきり顔はわからない。 
      「・・お・・」 
       とっさに『俺』と言いそうになって、慌てて口に手をやる。しかし男は猛の内心の冷や汗など気付く様子もなく、失礼、と言って猛の足下にスッとかがみ込んだ。 
      『あ・・ホテルの人・・だよな・・うわぁ、ばれたらどうしよう・・!』  突然のことに心臓がバクバクしている。  秘密を知られてはいけないと思うせいか、猛は男をまともに見ることができない。 
      「あ、あの」 
      「これは・・痛いでしょう。消毒をしたほうがよろしいかと思いますが、少し歩いてこちらに来られますか?」 
       猛が口を挟む間もなく、男は猛の腕をとって立ち上がらせ、会場のすぐ横の別室に案内した。 
      「え・・あの、お・・私は大丈夫ですから・・」 
       そこでやっと口にできた言葉も、男は聞こえなかった様子で猛を椅子に座らせた。そしていつの間に持ってきたのか、救急箱を手に再び猛の足下に膝をついた。 
      「少々滲みるかもしれません」 
      「・・・っ! 」 
       男が言うと同時にずきっとした痛みが走った。 
       消毒を終えると、ガーゼが当てられ、大きめの絆創膏で固定される。 
       手際よく施される処置を、猛はぼうっと見ていた。 
       かがみ込んだ体勢の男の顔ははっきり見えないが、案内された時の後ろ姿で、背の高さと肩幅の広い均整のとれた体つきはわかった。 
      『ホテルの関係者・・にしては結構強引な感じだよな・・。でも案内も慣れてたし救急箱も持ってたし、ここのホテルマンの服着てるし・・怪しい人じゃないか・・あ・・』 
       突然、猛の思考は停止した。 
       足の処置を終えて顔を上げた男と至近距離で目が合う。 
      『う・・わ・・。この人、すげー格好いいんだ・・』 
       初めて男の顔をまともに見た猛は、思わず感嘆の声をあげそうになった。彫りが深く少し甘い感じの整った顔に、猛をまっすぐに見つめている深い色の瞳。 
       目を逸らせずにいると、急にその瞳の色が和らいだ。 
      「やっぱり・・綺麗な瞳ですね。近くで見ると吸い込まれそうに蒼い・・・」 『・・やっぱり・・・って?どういう・・・』 
       男の言葉を不審に思ったその時、大きな手がそっと猛の頬に触れた。 『・・・え・・?』  突然の男の不可解な行動に、猛が固まる。 
       次の瞬間、その頬がかっと燃えるように熱くなった。 
       猛は思わず、ガタンっと音を立てて立ち上がっていた。 
      「あ・・あ、あの・・」 
      「しっ・・・黙って・・」 
       真っ赤な顔をして硬直している猛に、男がそっと近づく。 
      『えっ・・え・・えええぇぇぇっっ!!!!!!!!』 
       頭が真っ白になる。 
       心臓は爆発しそうに早鐘を打っている。 
      『お・・俺・・抱きしめられて・・る・・?な、何でっ!!!!』 
       大混乱して全く動けないでいる猛を、男はぎゅうっっと抱きしめている。そしてその耳元に小さく囁いた。 
      「とても可愛いお嬢さん。どうしてあなたが女性だけのパーティーにいらっしゃったのかは聞きませんが、・・・その足ではお早めにお帰りになったほうがいいですよ」 
      「!!」 
       その言葉で、猛の呪縛が解ける。 『どうしてあなたが、女性だけの・・』  確かにこの男はそう言った。つまり・・・ 『ば・・ばれてる〜〜〜っ!!!!』 
       腕の中でもがくと、男の身体は意外なほどあっさりと離れた。 
      「お・・おまえ・・そうか、俺が男かどうか確かめる為にこんなことしたんだなっ!」 
       それなのに、自分は真っ赤になって思いきり狼狽えて・・・刑事失格じゃないかっ!!  くやしくてわずかに目元が潤む。それがさらにくやしさを煽る。 「ちっくしょう・・なんとか言えよ!」  睨みつける猛をじっと見つめていた男が、うつむいてふっと小さく息を吐いた。 
      「・・そんなつもりはなかった・・と、今、私が何を言っても信じてもらえないでしょうが」  そして再び顔を上げた時には・・・思わず見惚れてしまうほど優しい笑顔を浮かべていた。 「・・・いつかまた、あなたが普段通りの姿をしているときに、お会いしたいですね」 
      「へ?・・どういう・・」 
       その時突然、会場の方から大きな拍手と歓声が沸き起こった。 
      「あ・・パーティーが始まった」 
      「このままお帰りになるなら他言はいたしません・・それでは、私は仕事がありますので失礼いたします」 
       男は何事もなかったかのように一礼をすると、部屋から出ていった。 
       そのドアを呆然と見ていた猛は、再び会場の方から聞こえてきた拍手にはっと我に返った。 
      「帰れって・・こんな格好までして手ぶらで帰れるかよっ!」 
      
       『要はさっきの奴に見つからなければいいんだよな・・』  
      「あー! たけちゃん! 」 
       何とかまともに歩けるようになって、会場内に戻ってきょろきょろしていた猛の耳に、突然甲高い声が響いた。 
      「どこに行ってたの? もうパーティー始まっちゃったわよ〜」 
      「たけちゃん、足大丈夫なの?カットバン持ってきたよ 」 
       振り返ると、ミキと、一緒に来たもう1人のモデルであるシャロンが駆け寄ってきた。  ミキはすらりとしたモデル体型をした若い女の子で、メッシュを入れた明るい茶色のセミロングの髪と、白でコーディネートしたミニ丈のドレスがその明るい表情を引き立てている。栗色のロングヘアもゴージャスな美女シャロンは、そのナイスバディをゴールドを散らした深い茶色のロングドレスで包んでいる。顔の彫りは深いがれっきとした日本人、しかも元男性・・ニューハーフモデルである。  二人とも長身ため並んでいると猛の背は目立たない。猛はそれに安心していたが、華やかな3人が並んでいると別の意味で注目を集めているとは全く気づいていない。 
      「あ、ありがとう。でも、ホテルの人がくれたから貼っちゃったんだ」 
      「あれ〜、たけちゃん、ナンパされたの?」 
      「・・ちがうって」 
       ミキの言葉に、どっと力が抜けた猛であるが、一瞬あの男に抱きしめられたことを思い出して、おもわず顔が赤くなる。 
      「あ〜! 赤くなってる!あやしい!」 
      「・・あー・・。ちょっと用事があるから、向こうに行くね。君たちは楽しんでて」  
      「そっか。たけちゃんは何かお仕事で来てるんだもんね」 
       二人とも猛が女装していることは聞かされているが、詳しい理由までは知らなかった。 
      「うん。二人ともありがとう」 
      「また一緒に飲みましょ・・・アタシ、あなたみたいなカワイイ子、好みなの」 
       猛よりわずかに上背のあるシャロンが、すばやく頬に音をたててキスをする。 
      「わっ・・あ、あの・・じゃあ、また! 」 
       顔を真っ赤にした猛は、二人に背を向けて駆け出した。 
      「かわいーわねぇ」 
      「ホント、男の子には絶対見えないよねー」 「社長に連絡先とか聞いちゃおうかしら」 「あ、抜け駆けはずるい〜!あたしも聞きたい〜!」 
       猛の後ろ姿が人混みに紛れてしまってからも、二人はしばらくクスクスと笑っていた。 
       『・・うう、びっくりしたな、もう』 
       シャロン達がいる場所から離れて、猛は赤くなった頬に手を当てながら会場の真ん中近くまで来ていた。 
       広い会場は、正面にグランドピアノが置かれた小さなステージがあり、両サイドには豪華な料理が並べられているテーブルが設えてある。中央の広い空間には所々にテーブルが置かれ、それぞれに飲み物を手にした女性達が集まり、華やかに歓談している。肩がぶつかるほどではないものの、大勢の参加者で、会場を見渡すことは困難だった。 
      『今はとにかく、狩野夫人の側に行かないと。でもどこに・・』 
       途方に暮れていたその時、会場の照明が一段落とされ、正面のステージにスポットライトが当てられた。会場内の視線が一斉に集まる。 
      「みなさま、本日はビューティサロン・カノウの10周年記念の会にお集まりいただきまして、本当にありがとうございます」 
       ステージの中央に立っていたのは、猛が探していた狩野美和子、その人だった。 
      『あーっ! あれがブルースノーか!? ・・』 
       絶対に身に付けて現れる、という桂の読み通り、胸元の大きく開いた黒いベルベットのドレスを身に付けた美和子の、その胸元には・・・ライトを受けて光り輝く、見事な蒼い宝石が輝いていた。 
       会場の誰もがその輝きに目を奪われている。その間に、猛は人の波をかいくぐってステージの脇まで辿り着いた。 
       数メートル先、一段高くなったステージ上で、美和子はまだ挨拶を続けている。 
       近くで見ると、ネックレスの豪華さがよくわかる。その輝きの魅力を充分に知っている美和子は誇らしげにステージに立っている。 
      『そりゃ綺麗だけど・・何も狙われてるってわかってるのに見せびらかさなくてもいいのになぁ・・・女ってわからないや』 
       長い挨拶が終わり、美和子がステージ脇の階段から降りてくる。入れ替わるように、紅いドレスを着た若い女性が壇上に上がり、ピアノの演奏を始めた。 
       猛は壁際に立って美和子とその周辺をじっと見つめていた。 
       ステージから降りた美和子は、近くにいた数人の中年女性とにこやかに話し始めた。だが、しばらくすると今度は少し離れたところにいた別の女性達の方へ行き、話しかける。 
      『これからお得意様を回って挨拶か・・・うう、あんまり歩き回らないで欲しい』 
       美和子がこれ以上人の波の中に紛れたら、この足をひきずってでも追いかけないと・・と、猛が悲痛な覚悟を決めた、その時。 
      「ワインはいかがですか? 」 
      「いえ、いりませ・・ん・・・っ!! 」 
       目の前に差し出されたグラスを断ろうとして顔を上げ、息を飲む。 
       さっきの男が猛を見下ろしていた。しかし雰囲気が先ほどとは全く違う。 「お帰りにならなかったのですね」 
      「あ・・あの・・」 
       ワインを持って立つ表情はにこやかななのに、猛を見るその目は笑っていなかった。 
       射抜かれるようなその視線は、決して普通のホテルマンの持つものではない。 
      『・・まさか・・!!! 』  猛の背が一瞬ぞくりと粟立つ。 
       そして直感した。 
       こいつが宝石を狙っている男・・・? 
      「おまえ・・かっ!! 」 
      「何がです? 」 
       不思議そうな顔をする男を、猛はきつい目で睨みつけながら口を開いた。 
      「・・・『蒼き宝』」 
       猛の言葉に、一瞬、男から作り物めいた笑みが消えた。 
       そして猛をじっとみつめて・・・・突然クスッと笑った。 
      「なるほど。関係者・・いや、招かれざる刑事か」 
      「・・っ!何いっ・・! 」 
      「しっ・・他の人に聞かれるよ。君だって困るだろう? 」 
       睨み続けている猛の肩に男が手を置いた。 
      「え・・わっ」 
       軽い力に見えたが、肩を押された猛は横にあった椅子にすとんと座らされた。その前に男がスッと膝を着いて猛と目を合わせる。 
      「なんだ・・よ・・っ!! 」 
       猛が息をのむ。  胸が締め付けられるような・・痛み。  男から、先ほどまで感じられた触れたら切れそうな雰囲気が消えていた。 「・・・」  男の目から・・・視線がはずせない。 
       どうして・・どうしてこの男はこんなに優しい目で自分を見るのだろう。 
       そして、その顔がわずかに、悲しげに見えるのは、なぜなんだろう。 「・・本当は、君にもう会えないのを残念に思っていた」  男の言葉に猛が目を見開く。 「君が刑事で、ここでもう一度出会えたのも・・運命かもしれない」 「な・・に?どういう・・」  当惑する猛の前で男が小さくため息をつき、目を閉じる。  そしてすぐに開かれた瞳は、再び厳しい光を放っていた。 
      「もう時間がない。危険だから君はここを動かないでくれ」 
      「・・ 何をするつもりだ・・!?」 
      「それは君もわかっているだろう? 」 
       予告を実行するつもりなのだ。苦笑する男に、かっとなる。 
      「どうして!? どうしてあんたが盗みなんか・・!? 」 
      「・・・君みたいな人に出会うとは・・計算外だったな」 
       猛の質問には答えないまま、男は立ち上がった。一緒に立とうとした猛の両肩が強く押さえられる。 
      「怪我をしたくなければ、少しの間だけここから動くな。いいな」 
      「ちょっ・・」 「その後で・・俺を追いかけてこい」 「!?」 
       そのまま背を向けて去る男を追おうと、猛が慌てて立ち上がった・・その時。 
      「・・・っ!!!! 」 
       突然、辺り一面が漆黒の闇に包まれた。 
       パニックになった女性の声や警備の男達の声が乱れ飛び、会場が一瞬にして混乱に包まれる。 「な・・これは・・?」  会場中の照明が消えてしまい、暗闇の中、動けずに猛はただ立ちつくしていた。 
       永遠に続くかのような闇は、実際には数分のことだったろう。 
       光は、消えたときと同じように突然復活した。会場中が安堵の声で満たされる。 
       しかし、その中で、ひときわ高い悲鳴が起こった。 
      「あああっっ!!! ネックレスがっっ!!!!! 」 
       声の方を振り返った猛の目に入ったのは、数メートル先で床に崩れ落ちる美和子の姿だった。  その胸に輝いていたネックレスが、消えている。 
      「取り戻すのよっ!!! 早くっ!!! 」 
       駆け寄ってきた背広姿の警備の男達に、美和子が叫ぶ。 
       ざわめいている会場内を、男達は出口に向かって一斉に走り出した。 
       呆然と事の成り行きを見ていた猛も、その姿を見てはっと我に返った。 
      『や・・られたっ!! ちっくしょうっ!! 』 
       男達を追って、出口に駆け出す。 
      『絶対、絶対見つけてやるっ!!! 』 
      「板橋っ!?」 
       会場を走り出ると、会場の外で待機していた十条が駆け寄ってきた。 
      「何があったっ!?」 
      「やられたっ! 会場が停電になった隙に盗まれた」 
      「お前、犯人の顔は!? 」 
      「わかってる!今から追いかける!! 」 
      「えっ?おいっ板橋っ!! 待てよっっ!! 」 
       十条の制止を無視して、警備の男達が降りていったエスカレーターの方へ向かおうとした猛は、ふと足を止めた。 
       わずかに見える階下からも、混乱した雰囲気が伝わってくる。 
      「おい、板橋? 」 
      「・・・停電ってホテル全体だったのか? 」 
       追いついてきた十条を振り返り、猛が聞く。 
      「え? いや、1、2階だけだったみたいだ。外にいた桂警部補からの連絡では、ホテルの下の方だけ真っ暗になった直後から警備の男達が出入り口を封鎖して、殺気だってうろついてるって」 
      「・・じゃあ、逃げる時間は、停電の数分だけか・・」 
       猛が考え込む。 
       この停電は絶対あの男が仕組んだものだ。だけどそれにしては、あの数分はペンダントを美和子から盗んで逃げるには短すぎる気がする。それに急いで逃げるにしても、1、2階にはパーティーが始まる前から結構な数の警備がいて、少しでも不審なことがあると従業員もチェックされていたはず・・・ 
       そこまで考えていて、ふと引っ掛かった。 
       1、2階だけの停電・・・? 
       どうして全館じゃないんだ・・?全館のほうが騒ぎが大きくなるはずだ。パニックを引き起こすだけならその方が効果的に思える。 
      「・・・あ! 」 
       もし、上にパニックが起こしたくないんだったら・・?  上の宿泊階の警備は手薄のはずだ。部屋に出入りする人間もいちいちチェックしていない。潜んで脱出の機会を伺うこともできる。 
       1,2階だけを混乱させて、警備の目をそこに引きつけたいんだったら・・? 
       あの男は・・・まだ上の階にいるはずだ・・・!!!  
      「上・・・だ!まだあいつは上の階にいる!」 
      「えぇっ!? おいっ!? 板橋、待てってばっ!! 」 
      「お前は宿泊客で怪しいやつがいないかチェックしてくれっ!!」 
       驚く十条を再び置いて、猛は駆け出す。 
      「十条!! あ、板橋!? 」 
       背後で坂本の声がするが、猛は振り返らずに階段に向かった。 
       エレベーターを待っている余裕なんてない。 
       とにかく、あいつを見つけてやる。 
       誰よりも先に見つけて・・・どうしても聞きたい。 
       フロアの端にある非常階段のドアを勢いよく開け、階段を駆け上がる。しかし、1階分も上らないうちにヒールがズルッと滑り、転倒しそうになる。 
      「ああっ!! もうっ!!」 
       苛々とハイヒールを脱ぎ捨てると、猛は再び駆け上がりだした。 
       両足の絆創膏には血が滲んでいる。 
       しかし猛の頭からは足の痛みも、最初の目的『犯人の手がかりをまず掴むこと』も、桂の『深追いはしないように』という忠告さえ、すっかり消え去っていた。 
       ホテルの3,4階は披露宴会場、5階以上は客室フロアだった。 
       どのフロアに潜んでいるかはわからない。しかし猛は確認もせずに上の階を目指していた。 
       とにかく一番上の階へ。いなかったら、上から全部の部屋をしらみつぶしにあたってやる! 
       最上階は20階。 
       猛が息を切らしながらそこに到着したのは、わずか5分後のことだった。 
       なかなか整わない息をそのままに、最上階のフロアに続くドアを勢いよく開ける。 
      「・・・あ」 
       そこは、照明が押さえられた、落ち着いた雰囲気のバーの入口だった。 
       突然非常階段から現れたドレス姿の猛に、入口にいたマネージャーらしき男性が驚いた顔を向ける。 
       その視線に構わずに、猛はあたりを見回した。しかしそのフロアはバーの入口があるだけで、他には何もない。  そこに、ポケットに入れていた携帯の着信音が聞こえた。 『板橋くんか?今どこにいる?』 「・・・最上階の店の前です」  聞こえてきた桂の声に答えると、相手が小さくため息をついたのが聞こえた。 『深追いはするな。これから俺達もそちらに向かうから、待っているように』  そのまま通話が切れる。思わず猛もため息をついた。 『しょうがないか・・でもこの階だけでも先に調べたい・・』  先走っているのはわかっている。でも・・じっとしてはいられない。こうしている間にもあの男は逃げてしまうかもしれない。 
      「15分位の間に、このフロアに不審な男が来なかったですか? 」 
       猛は警察手帳を見せながら入り口の男に近づき、尋ねた。 
       男は手帳と猛の様子に、更に驚きを強くしながらも、見ていないと答えた。 
      「この上には行けないんですか? 」 
      「いえ、店の奥に屋上に通じる階段がありますが普段は・・・あ」 
       男が急に声をあげる。 
      「何か?」 
      「そういえば・・ついさっき、ホテルの従業員がそちらに行きました」 
       猛の目つきが鋭くなる。 
      「誰ですか? 」 
      「いえ、見かけない顔だったのですが・・制服を着ておりましたので・・」 
      「どちらです!? 」 
       言いにくそうに話す男を遮って、猛が詰め寄る。 
      「店の厨房の奥です」 
       聞くと同時に、猛は店に駆け込んだ。驚くスタッフに目もくれず、厨房の奥にあったドアを開ける。  
      「ちっくしょ・・逃がさねぇ!!」 
       狭い階段を、猛は再び駆け上がった。 
       すぐに鉄製のドアが現れる。 
       ノブを回して体当たりするようにドアを開けた。 
       鍵はかかっておらず、全開になったドアからは、身を切るように冷たい風が吹き込んできた。 
       そして・・・。 
      「・・・やっぱり、来たね」 
       何もない屋上の中央付近から、こちらを見ている男と目が合う。 
       暗い空間で夜景を背景に立つその姿に、猛は一瞬、目を奪われた。 
      「・・やっぱり、ここだったんだ・・」 
       震える手を握りしめ、猛は一歩ずつ男の方に歩き出した。 
       手は届かない程の、でも暗がりでも表情がはっきりわかる距離で立ち止まる。 
       そのまま立ち尽くす猛に向けられた男の表情が、ふっと柔らかくなった。 
      『・・また、あの顔だ・・・』 
       自分に向けられる優しい視線の意味がわからない。それなのに猛の心臓は勝手に早鐘を打ちだして、自分でもコントロールができない。 
       男を捕まえるのが自分の仕事だ。 
       だけど・・・追いかけて、目の前にいるのに自分は動けない・・・どうしても捕まえられない。 
      「どうしたんだい、俺を捕まえに来たんだろう? 」 
       まっすぐに猛をみつめている瞳。 
      「・・・あんたは捕まりたいのかよ」 
      「できれば捕まりたくはないが・・・君と争うのも嫌なんでね」 
       男の言葉に、猛が目を見張る。 
      「・・どうして・・」 
       不審げな猛を見て、男が苦笑する。 
      「パーティー会場で見たときから君が気になって仕方がなかった。刑事だとわかっても変わらない・・いや、かえって君の素性が解ったことがうれしかった。多分、一目惚れって奴だろうな」 
       猛の目が更に見開かれ、次の瞬間、耳まで紅く染まった。 
      「な、何で・・からかうのはやめろよっ! 」 
       うろたえる猛を見て、男は苦笑を深くする。
  
      「からかってなんかいない。言っただろう?『運命かもしれない』って」  そういう男の目はまっすぐで、とても冗談を言っているようには見えない。何も言えずに呆然としている猛に向かって、男は少し寂しげに微笑んだ。 「信じてもらえないのはしょうがない。だけど目的のものが手に入らなくても、君に捕まってつながりができるほうがいいと思えるくらいに・・・本気だよ」  優しい、でも少し寂しそうな表情で語られる言葉は、どれも猛の胸の奥を溶かしてしまいそうに熱くて・・・強烈に猛の心を惹きつける。  胸が熱くて・・苦しい。どうしてかなんて自分でもわからない。ただ・・・。  この男を逮捕なんて・・・俺にはできやしない。 「俺は・・あんたを捕まえようとは思ってない」 
       まっすぐに顔を上げて言った猛を、男が驚いた顔で見つめる。 
      「俺もあんたの事が気になるんだ。それに・・・・・俺は、あんたがどうして・・・どうしてこんな盗みを続けているのか、聞きたい」 
       猛の目は逸らされることなく男を見つめている。  その視線を正面から受け止めて、男はゆっくりと口を開いた。 
      「・・・聞いたら、君を帰せないよ・・それでも聞きたいかい?」 
       男の言葉に猛は息を飲んだ。そしてわずかの間悩み・・・小さく首を縦に振った。 「本当に?」 「ああ」  もう一度、今度ははっきりと頷くと・・男は艶やかに微笑んだ。 『・・あ・・』  その鮮やかな笑顔に思わず頬を熱くした猛に、男が近づきスッと右手を差し出す。 
      「おいで・・・俺に盗まれてくれ」 
       その手に引きつけられるように、猛も右手を出す。 
       二人の指先がわずかに触れ合った・・・その時。 
      「ちょっと待ったぁっ!! 」 
       突然背後から怒鳴り声が響いた。 
       猛が振り向くと、数メートル先の非常階段のドアの所に、坂本が肩を怒らせて立っている。 
      「さ、坂本警部!? 」 
       焦った猛が手を引っ込めるよりも早く、男はその手を掴み猛を抱き寄せた。 
      「え、あっ!! 」 
       男はそのまま猛を連れて屋上の端まで素早く移動した。それとほぼ同じくして、隣のビルの陰から大音量のプロペラ音を響かせながら、ヘリコプターが現れた。 
      「しっかり掴まってろっ」 
       男の声が聞こえたと同時に、猛の身体がふわりと浮き上がる。 
      「えっ・・・うわぁあっ!!!! 」 
       突然の浮遊感に、猛はパニックになって男の首にしがみついた。 
       あっという間に、数メートルほど上昇する。猛が肩に巻いていた、鮮やかな蒼のショールが風に飛ばされて落ちていった。それを思わず目で追ってしまい、足下に広がる夜景に目眩がする。 
      「待てぇっ!! 板橋を返せっ!!! ドロボーッ!!!」 
       屋上の端に駆け寄ってきて叫んでいる坂本達の姿が、どんどん小さくなっていく。 
      「・・・今さら俺にドロボーと言われてもね」 
       くすっと笑った男の顔を、硬直した顔で猛が見上げる。間近にある男の顔は、夜の東京上空をヘリコプターからワイヤーだけでぶら下がっているとは思えないほどの余裕だ。 
      「怖い思いをさせるが、すぐに目的地に着く」 
       男が安心させるかのように猛に微笑む。 
      「着いたら・・・まず、君の名前を教えてくれ」 
      「あ・・あんたの名前もだぞっ!」  震える声でなんとかそれだけ言うと、猛はそのままきつく目を閉じた・・・。 
         FIN.
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