キッチンに立つ雅也の前では、コーヒーメーカーがいい香りをたてている。その湯気を見ながら、雅也はまだ混乱している頭を整理しようとしていた。
顔を上げるとカウンター越しに、リビングのソファーに座る城の背中が見える。さっきまでステージの上で着ていた革のジャンパーのままだ。
ここに城が座っているなんて・・・さっきまでは想像もできなかった事態だ。
あの後、通路で動けないでいる雅也の後ろで、エレベーターが動く気配がした。はっとして城から離れようとしたが、城の腕がそれを許さなかった。
この姿を誰かに見られるわけにはいかない。
「放せ・・・よ」
「話がしたい。今」
城の顔をまともに見ることができない。逃げてきたという負い目で雅也には強く出ることができなかった。
「・・・わかった。じゃあ中に入ってくれ」
それしか言えなかった。
ぼこぼこという、コーヒーを淹れ終わった音で、雅也は我に返った。二つのカップに注いでリビングに運ぶ。
頭はまったく整理されていない。
テーブルにカップを置く間も、城の視線がまっすぐ自分に向けられているのを感じる。自分のカップを置くと、雅也はL字型のソファーの端に座った。
雅也は城をリビングに通すとすぐに着替えてメイクを落とし『各務雅也』に戻っていた。
城が貴子が誰か知っているとわかった以上、もうその姿を見られたくなかった。
コーヒーカップに伸ばそうとした手がわずかに震えているのに気がつき、雅也はその手をそのまま膝の上に戻した。
自分でもおかしいくらい緊張している・・・雅也は小さく息を吐いた。
「どうして逃げたんだ?」
そのとき、突然城が口を開いた。
はっと顔を上げると、城の鋭い視線とまともにぶつかる。その強さに耐えられなくて、雅也は思わず目をそらした。
どうして・・・雅也は城にどうやって説明したらよいのかわからなかった。自分の『貴子』に対する嫉妬心を言ってしまうには強い抵抗があった。
「言えないのか・・?」
黙っている雅也を見つめたまま、城が続ける。
「演奏しているとき、俺は各務の視線をずっと感じていた。それだけで自分でも今までで最高の演奏をやれたと思う」
城のため息が聞こえる。
「・・・それがアンコールが終わるって時に消えた。実際ステージからいくら探しても・・・お前の姿が消えてた。すぐにそでに飛び込んでギター放り出して外に出た。遠くにタクシーに乗る各務の姿をみつけて走ったけど、間に合わなかった・・・でもどうしてもお前の気持ちを知りたくて、バイクを飛ばしてきちまった・・各務の家は名簿で前から知っていたからな」
城の腕がふいに伸びて、膝にあった雅也の腕を掴んだ。
二人の視線がぶつかる。
「各務・・・あんた俺をからかってたのか?」
雅也の目が大きく見開かれる。
違う・・!
心の中で叫ぶが城に届くはずがなかった。
頭が真っ白になって喉が凍りついたように動かない。
違う・・・違う・・・!
言葉が出ない雅也を、城が見つめている。
永く・・永く感じられる数分間。
そして城の視線が床に落ちた。雅也を掴んでいた手が放れる。
「・・わかった。帰る」
城が立ち上がる。その視線は雅也から外されたままだ。雅也の胸が強く痛んだ。
行ってしまう。
背中を向けた城の姿を目で追う。胸が裂けそうに苦しくて、喉が引きつったように痛くて・・・
城が行ってしまう・・!
「・・・城!」
雅也の声に、城の歩みが止まる。
振り返った城の顔が驚きに変わった。
雅也の目が涙に濡れていた。自分では気づいていないのか、まっすぐ城を見たまま拭おうともしない。
「からかってなんかない!・・・・城に会いたくてライブにも行ったんだ」
「じゃあ・・何で」
「お前が俺を見てないと思って苦しくなったから・・」
「・・どういうことだ?」
「それは・・」
わずかに下を向いたとき、雅也の頬から涙が床に落ちた。それで自分が泣いていることに初めて気が付いた雅也は、あわてて城に背中を向け手で頬を拭った。
城が近づいてくる気配がする。
「どういうことだ、各務」
すぐ後ろで声がした。
「・・お前が正体知ってるとは思わなかったから・・」 雅也が掠れた声で小さくつぶやく。 「・・貴子の格好してると結構誘われる。みんな上辺だけしか見てないから」
「俺もそうだと思ったのか?」 「最初は。でも・・送ってもらってるうちに城が真剣なんだってわかってきて。でもお前が好きなのは『貴子』だと思ってたから・・・もうこれ以上一緒にいられなかった」 うつむく雅也の肩を城の両手が包んだ。
「俺にはどっちの各務も同じだ」
「だったら・・!」
雅也が振り向いて城を睨む。
そのまま胸につかえていた言葉を吐き出した。
「だったら何で言わないんだよ!大体いつから知ってたんだ!」
「・・最初はわからなかった。あの夜あんたが階段から降ってきた時は、あんまり各務に似ていたから驚いたけど本人とは思わなかった」
「俺に・・似てる・・?」
「ああ。各務のことは前から気になってたから、教室でもいつの間にかあんたのことを目で追ってた。ただ、それがどうして気になってたのかは自分でもよくわかっていなかった」
意外な告白に雅也の目が丸くなる。
固まっている雅也を促して再びソファーに座らせ、城は隣りに腰を下ろした。
「あの時『貴子』が気になったのは事実だ。抱きしめて『これが各務だったら』と思った・・それまでの、教室での各務は俺には手の届かない人間だったから」 城が大きく息を吸い込む。 「それが同一人物だと気が付いたのは、教室で各務が倒れて俺が保健室に運んだときだ。足首の怪我を見て、もしかしてと思った。すぐに隣のクラスの奴が入ってきたから俺はカーテンの陰に隠れて・・・あんた達の会話が聞こえた。それで確信した」 城が真っ直ぐに雅也を見つめる。 「あの抱きしめたのが本当に各務だったんだと思ったら・・・それからもう見ているだけじゃいられなくなった」
話を聞くあいだ、雅也は信じられない思いで城を見つめていた。
城は最初から自分を見てくれていたのか・・。
「じゃあ・・何で言わなかった・・?」
「各務が隠していたから」
「・・え?」
思いがけない返答に、雅也は首を傾げた。
「あんたがずっと自分のことを隠していたから、言いたくないのか事情があるのかだと思ってた。だったら付き合うのをOKしてくれた時に全部話そうと思った」
じゃあ、城は自分の事を考えてくれていたのか・・・? 雅也は自分が情けなくなってきた。
『一人で空回りして・・俺バカみたいだ・・』
ため息が出てしまう。
「何だ?」
「いや・・悩んでた俺が馬鹿だから、もういい」
「・・・悩んでてくれたわけだ、各務も」
城の声がすぐ近くで聞こえた。顔を上げるとすぐ前に城の顔がある。
「じ・・城?」
「あと何か質問は?」
「べ・・別に・・」
「じゃあ、今度は俺が聞く番だ」
城が接近してきた分だけ後ろに下がる。でもすぐにソファーの背もたれにぶつかってしまった。横を向いても顔の両脇に城の腕が伸ばされ逃げられなくなる。
「俺はずっと『各務雅也』を見てた。そしてあんたのことを好きだと言った・・・あんたは・・各務はどうなんだ?」
「お、俺・・?」
雅也の頬があっというまに紅潮する。落ち着いていた鼓動がまた速くなる。
自分の答えは・・・もう決まっている。わだかまりがなくなって、残ったのは自分の想いだけ。でもそれは雅也にとって、今まで人に面と向かって言ったことのない言葉で・・・口にするには抵抗が大きい。 『・・これだけ赤くなってるんだから・・分かれよ・・!』 心の中で叫びながら城を睨み上げる。
すると間近にある城の顔がはっきり笑った。
頬の熱さが激しくなる。これでは今更ごまかすこともできない。
「各務、俺のことをどう思ってる?」
城は絶対にわかっている・・・でも言わないわけにはいかない。
「・・・好き・・だよ!」
城を睨んだままつぶやいた雅也を、城はふわりと腕の中に包み込んだ。
「よく言えました・・・あんた、最高だよ」
今、自分は城の腕の中にいる・・・
昨日までは現実になるなんて思いもしなかったのに。
こんなに自分が人を好きになれるなんて思わなかった。
想いが通じることがこんなにうれしいとは知らなかった。
もしもいつか・・この腕が自分から離れていってしまったら・・・・自分は悲しくて狂ってしまうかもしれない・・・
「・・各務・・?」
ゆっくりと城の背に両手をまわす。
城の抱擁も強くなる。
抱きしめて・・・
離さないで・・・
永遠に側にいて・・・
「DOUBLE
PANDORA 1 」Fin.
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